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この度アメブロ始めました。今後ともどうぞよろしくお願いいたします。 まみとも
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2017年09月05日
私は○○です
「あなたは誰ですか?」
と訊かれると
「 私は、◯◯です 」
と名前を答える。
これ、自己紹介の時の
お決まりのフレーズですよね。
暗黙の了解で何の違和感もなく
自己紹介してますが…
名前は、あなたではありませんから〜
ざんね〜〜ん‼︎ (古っ 笑)
その証拠に、
私の 名前
My Name
と言いますよね。
その「私の」の「私」とは?
その私とは何ですか?
と訊ねると
身体を指す人が多いです。
それは身体を私と感じているから
そう思うのは当然といえば当然かもしれません。
でも、よーく考えてみて欲しいのですが…
もし身体=私なら、
なぜお風呂に入る時に
「私を洗う」と言わずに
「身体を洗う 」と言うのでしょう?
そこに隠れているけど、明らかに
「私の」が入っていますよね。
私の 身体 ですよね。
My Body です。
「私を洗う」と言うと、
誰もが違和感を感じる。
ということは、
本当は知っているんですよね。
私は身体ではないことを。
ここで、「私」とは
名前でも身体でもないことがはっきりしました。
では、私とは何なのでしょう?
と訊ねると、
心と答える方がいます。
でも、心=私ならば
私の 心
My Heart
と言わずに
「私」と言えばよいわけです。
「心を感じる」という表現がありますが、
それは「私の…」という言葉が隠れています。
正式には「私の心を感じる」です。
また、
「心が折れる」という表現もありますが、
もし心=私ならば
「私が折れる」となります。
そんな表現する人、見たことも聞いたこともないです。
だって、違和感ばりばりですもの。
ここまでで、「私」とは
名前、身体、心ではないことがわかりました。
それじゃあ、私って何なのでしょう?
と訊ねると
魂
と答える方がいます。
魂という意味合いは
人によって異なったりするけど、
多くはこんな感じだと思います。
・輪廻転生を繰り返して死なない存在
・いつも自我を見守っている存在
・たった一つの大いなる存在
この定義でいくと、魂は目に見えませんし、個別に捉えられるものでもありません。
ですから、魂=私ならば、
そもそも名乗ったり紹介できるものでないことになります。
そして先程、心の部分で
「私の心が折れる」「私の心を感じる」と話しましたが、
なぜ心が折れたり感じたりすることがわかるのかというと、
両方に共通している「私」がいるから。
その「私」が、心の動きに気づいているからです。
では、その気づいている「私」はどこにいるのか?というと
○○と指し示せないところにいます。
どこどこと指し示せないので、
「ここ」と言ったりします。
その私は、表からは見えませんし、
姿 形、色もありません。
無味無臭といった感じです。
(これ実際に追求してみるとはっきりしますので、ぜひやってみてくださいね。きっとスッキリしますよ♪)
ということで、私達って、
何を私として認識し紹介しているのかというと
ズバリ!
キャラクターです。
個性です。
因みにそれをまとめて
個人と言っています。
上記の通り、
私とは名乗ったり紹介できるものではないので、
そのキャラクター、個性として姿形のある個人を「私」として仮設定しているのです。
お互いは仮設定された存在であり、
本当は同じものなんです。
違うのはあくまでも仮設定の部分だけ。
つまり、自分に自分を紹介したり話しているということになるんです。
そのキャラクター、個性という個人を通して。
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と訊かれると
「 私は、◯◯です 」
と名前を答える。
これ、自己紹介の時の
お決まりのフレーズですよね。
暗黙の了解で何の違和感もなく
自己紹介してますが…
名前は、あなたではありませんから〜
ざんね〜〜ん‼︎ (古っ 笑)
その証拠に、
私の 名前
My Name
と言いますよね。
その「私の」の「私」とは?
その私とは何ですか?
と訊ねると
身体を指す人が多いです。
それは身体を私と感じているから
そう思うのは当然といえば当然かもしれません。
でも、よーく考えてみて欲しいのですが…
もし身体=私なら、
なぜお風呂に入る時に
「私を洗う」と言わずに
「身体を洗う 」と言うのでしょう?
そこに隠れているけど、明らかに
「私の」が入っていますよね。
私の 身体 ですよね。
My Body です。
「私を洗う」と言うと、
誰もが違和感を感じる。
ということは、
本当は知っているんですよね。
私は身体ではないことを。
ここで、「私」とは
名前でも身体でもないことがはっきりしました。
では、私とは何なのでしょう?
と訊ねると、
心と答える方がいます。
でも、心=私ならば
私の 心
My Heart
と言わずに
「私」と言えばよいわけです。
「心を感じる」という表現がありますが、
それは「私の…」という言葉が隠れています。
正式には「私の心を感じる」です。
また、
「心が折れる」という表現もありますが、
もし心=私ならば
「私が折れる」となります。
そんな表現する人、見たことも聞いたこともないです。
だって、違和感ばりばりですもの。
ここまでで、「私」とは
名前、身体、心ではないことがわかりました。
それじゃあ、私って何なのでしょう?
と訊ねると
魂
と答える方がいます。
魂という意味合いは
人によって異なったりするけど、
多くはこんな感じだと思います。
・輪廻転生を繰り返して死なない存在
・いつも自我を見守っている存在
・たった一つの大いなる存在
この定義でいくと、魂は目に見えませんし、個別に捉えられるものでもありません。
ですから、魂=私ならば、
そもそも名乗ったり紹介できるものでないことになります。
そして先程、心の部分で
「私の心が折れる」「私の心を感じる」と話しましたが、
なぜ心が折れたり感じたりすることがわかるのかというと、
両方に共通している「私」がいるから。
その「私」が、心の動きに気づいているからです。
では、その気づいている「私」はどこにいるのか?というと
○○と指し示せないところにいます。
どこどこと指し示せないので、
「ここ」と言ったりします。
その私は、表からは見えませんし、
姿 形、色もありません。
無味無臭といった感じです。
(これ実際に追求してみるとはっきりしますので、ぜひやってみてくださいね。きっとスッキリしますよ♪)
ということで、私達って、
何を私として認識し紹介しているのかというと
ズバリ!
キャラクターです。
個性です。
因みにそれをまとめて
個人と言っています。
上記の通り、
私とは名乗ったり紹介できるものではないので、
そのキャラクター、個性として姿形のある個人を「私」として仮設定しているのです。
お互いは仮設定された存在であり、
本当は同じものなんです。
違うのはあくまでも仮設定の部分だけ。
つまり、自分に自分を紹介したり話しているということになるんです。
そのキャラクター、個性という個人を通して。
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Posted by まみとも at 07:33│Comments(0)
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